極私的(プライベート)・鷹匠町〜鷹匠町と17西区(11区)〜

【わが懐かしの鷹匠町】半世紀も前のことなので、潔く、わかりやすく、実名で書きます。
(問題ありましたら、どうぞご連絡を)

 鷹匠町833番地。私が生まれた場所だ。モスリン新道と侍屋敷の通りにはさまれた中庭のような場所で表通りに出るには路地を通りぬけるしかなかった。館林の城内、鷹匠町で育ったことを、とても幸福なことだったと感謝している。(城下町館林の面影を色濃く残したエリアでしかも江戸時代の長屋暮らしのような濃い人間関係の中で育ったのだから。)

秋元時代鷹匠町図
▲秋元時代の絵図を加工。 私が生まれた所は岡谷兵八郎(瑳磨介)邸と塚越平学邸の境界辺り。
(※岡谷家の当主は代々兵八郎を名乗る。(屋号みたいなもの、こうした知識を得ると絵図面がより楽しめる)映画館・大映があった場所には家老職の木呂子家の名前も。寺島家は今も昔も同じ場所に・・奇蹟のようなこと、素晴らしい。

 館林城の再建をめざす会を始めてから町の歴史を調べると
自分の記憶と歴史がシンクロするときがある。
安政の改革を指揮した名家老・岡谷瑳磨介の家は私の生家に隣接した場所だとわかったときの衝撃。
我が家の敷地の所有者は南條さんであったこと。伴木にあった南條家へ母と挨拶にいったこと。その南條家はなんと 岡谷瑳磨介の息子・南條新六郎家であったとは。(しかも長澤理玄を調べたときに、上州初の種痘を受けた四人のこどもの一人が南條さんであったことなど・・・。)
あまりの偶然に不思議な縁を感じたことが多々あった。なにかあるね。
2015年10月4日、上州初の種痘を記念して長澤理玄の顕彰碑を建てます。乞うご期待。

 鷹匠町の自宅の北西側に植えられていたお茶の生け垣が、なんと 岡谷瑳磨介が館林藩の藩政改革の目玉であったお茶の産業化そのものであったことなど・・・・、鳥肌がたつ。
昭和32年自宅
▲太った健康優良児のような田舎の少年が小学1年生の私。自宅で撮影した写真。偶然、お茶の木が写っていた。この場所の土地所有者は南條さんであり、 岡谷瑳磨介の息子である。(長男は遣米使節団の荘三郎)
註)写真の解説で撮影年号を昭和32年と記してあるが昭和33年の間違い。訂正します。(2015/09/30訂正)

 お茶の木は、毎年目立たない白い花をつけ、固い実をつける。新しい葉はとても柔らかくて肉厚でおいしそうであった。
お茶の成長サイクルを18年間も間近でみてきたのだった。 そのお茶の木は瑳磨介が京都・宇治から苗木を取り寄せて栽培させたものだったとは・・・。 宇治茶だったのだ!
(※茶の木の樹齢はおおよそ150〜200年といわれる。瑳磨介が山城国・宇治から苗木を調達したのが安政4年・1854年のこと。
写真は1957年なので写真の茶の木は樹齢110年頃。しかし、宇治の銘木であったとは・・・。)


ご近所で同級生の川島自転車店で飼われていた「ペス」という茶色の犬がいた。性格が穏やかでひなたぼっこを好む老犬だった。町内みんなに愛されていた。背中に湿疹が出来ていて、お茶の木の根元にうずくまり、かゆい背中を枝にこすりつけていた。「ペス」お気に入りの場所があり、その場所だけお茶の木がこすれてへこんでいたのだった。
よく昼寝をしていたおとなしい「ペス」の孫の手かわりのお茶の木が実は、山城の国・宇治から取り寄せた由緒ある銘木だったのだ。ペスも知らなかっただろう。

お茶の生け垣を境界にして北側に長澤さん、「乳もみ」の羽鳥さんの家があった。その堺に大きなケヤキの木がそびえていた。
(長澤さんて、理玄と関係あるのかな? あったら鳥肌ものだね。長澤さんの家に二人の娘がいてその一人の名が美麗(みれい)ちゃん。きらきらネームが当たり前の現代では普通の名前だが半世紀前なので、名前の格好よさに圧倒されたものだ。

下の写真は昭和45年の鷹匠町の空撮。現在の3〜4倍の人工密度であった。昭和30年代、団塊の世代がまだこどもであり、路地から多くのこどもがわき出していたのだった。
空撮鷹匠町▲昭和45年国土地理院撮影(空撮)をもとに鷹匠町周辺を加工しました。

【昭和30年代の鷹匠町は今では考えられないような演劇的な空間だった。
これほどの濃密な空間をこえる舞台に出会ったことがない。 】


我が家を中心にして半径60m以内にあったお店・商業施設
●「乳もみ」羽鳥さん(おじいさんがマッサージ師)
●「駄菓子屋」野代さん(駄菓子屋なのに赤玉ポートワインのセミヌードの名作ポスターが飾ってあった)
●「時計屋」寺内さん(夫婦で時計屋を営む。店舗は2畳ほどで奥の座敷は4畳半かな。そこで生活していた)
●「万年筆「奥沢さん(寺内さんの店の壁を隔てた隣)
●「電器屋」山本さん(奥沢さんの店の壁を隔てた隣)1軒の家に5世帯が暮らしていたのだ!
●「拝み屋」曽我さん (カリスマのシャーマン)
  入り口に井戸がありそばにお地蔵さんが。本殿のような広間に大きな太鼓が備えてある。本殿の畳の間に年寄りばかりの信者たちが集会していた。小柄なおばあさんであったが、動作は機敏で全身不思議なオーラを出していた。早朝、井戸水でお地蔵さんを磨いている姿が力強かった。曽我さん凄すぎる!子ども心に畏怖してました。
 拝み屋・曽我さんにお願いする案件は、遺失物(透視して見つけてしまう)。人生相談など困ったこと何でも。
私の母は長男の孫の将来を心配して相談してました。「あの子は素直なよい子だがら安心すればよい。」(曽我さんの見立て。)
アメリカの精神分析医のようなことまで全て引き受けていたのだ。今思うと、町内一の偉人だね。
 ※余計なことだが、相談料について。お布施なので決まってないが昭和60年代で500円らしい。(母に尋ねた。)曽我さんやはり偉人だ。ワンコインでお悩み解決。昭和の館林はすばらしく生活しやすかったね。

その後の曽我さん。高齢でひとり暮らしの曽我さん。多くの信者に頼られていたが、老齢のため親族が面倒をみることに。引っ越ししてしまった。後継者はもちろんいない。建物は残っていた。
私が小学生のころ曽我さんを80歳位の老人と思っていた(こどもの観察眼はいい加減なので)。年齢を超越したパワーを持つ曽我産さんはいったい何歳だったのだろうか?  60歳を越えた今、とても気になる。
私に文才があれば、小説にしたい人物である。

●「花屋?」藤野さん
●「洋裁」桜井さん
●「じゃんぼん屋」長沼さん。(博善社という葬儀屋さん、こどものころはじゃんぼん屋と言ってました)
●長沼さんの対面に大きな工場がありました。なにをつくっていたのだろうか?
●「目医者」伊藤さん
●「経師屋」島田さん
●群農会の大きな建物
●「自転車屋」川島さん
●「クリーニング屋」土田さん
●「会計事務所」小寺さん(江戸時代・館林城下の検断で名家)
●「 瓦屋根職人」小林さん(同級生)
●我が家の南側の隣人・藤野さん、侍屋敷の面影が残る家だった。雰囲気のある門塀。庭、屋敷。奥の庭は畑のようなもので北にお稲荷さんが建ててあった。(現・田中正造記念館ー田中正造と縁もゆかりもない建物でなぜ?という感じ)
●「映画館キネマ隣の中華名店で店名を失念」黄さん(部活のひとつ後輩)
●「あしぎん店長社宅」明石さん(同級生/現在の武鷹館。門は当時のまま)。
●「耳鼻科」小倉さん(小学5年頃、小倉さん宅で飼われていた大きな犬に足の付け根をかまれた。歯形ものこるほど。
かわいそうに犬は処分されてしまった。小倉さんの息子にはキャッチボールなど教えたり、面倒みてあげました。)


◎それぞれの路地の中央に共同井戸があり、共同のトイレ(もちろん汲み取り式)もあったのだ。江戸時代の長屋の暮らしだね。

その「経師屋」島田さんのご子息で私の2つ下の後輩、島田尚彦さんから当会のサイトへメールが届きました。
島田さんの記憶力はすばらしくて、ここに紹介します。(島田さんの許可を得てアップします。)
昭和30年代、団塊の世代がこどもの頃、まだまだ貧しかった日本ですが、
明るく希望に溢れた三丁目の夕陽のような世界が展開されてました。
島田さんのメールをいただいて、50年以上昔の記憶がよみがえりますね。
          ◎
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田中 茂雄様

こんにちは。島田です。
本日の記事を閲覧して、先輩の御顔を拝んでおります。

子どもの頃、大手町子供会は、白石幸一様が青少年育成委員を務めて
いました。私の父親は、南小PTA役員でした。

白石さんの家は、石井肉店さんとお米屋さんの間の路地を入った奥で
乳幼児の玩具を製造されてました。「カタカタ」という手押し車木工品
の家内制手工業を営んでいました。

先輩も子供会の会長を歴任されましたね。私は、野球部にいた須永幸彦
さんの後任で務めましたが、ピエロのような存在でした。

白石さんと一緒に館林市子供会連合のキャンプに参加した記憶があります。
郷谷公民館の広場でキャンプファイヤーや飯合炊爨とテント宿泊を体験し
ました。
いまでも作った味噌汁の具材に近くの畑の茄子を採ってきて入れたことが
忘れられません。正直、まずかったです(笑)

旧鷹匠町は、モスリン新道を挟んで私の実家は「大名小路825番地」でした。
旧邑楽郡農業協同組合から伊藤商店までが「大名小路826番地」です。

地名・町名をひとつ調べても館林城の成り立ちが解明でき、胸が躍りますね!
いま考えると、小学校の校名も昔のままで良かったかもしれません?
第二小学校は、現在も「南光」という伝統ある名称をスポーツ少年団が使用
しているとのことです。

余談ですが、私たち第二中学校同期も還暦同窓会を昨年2月、大雪の降る中
挙行しました。残念ながら私は不参加でしたが、記念に撮影した集合写真が
上毛新聞紙上に掲載されたとのことでした。

先輩たちが憧れた後輩女性たちは、美魔女に変身しています。とくにバスケ部
テニス部の皆さんは中学時代の清楚さを保っています!

老前整理を行っています。館林の思い出を探し出し、資料を送らせていただき
ます。子供会の夏祭りで先輩が神輿を担いだり、お姉さまが浴衣姿で山車を引く
様子が記憶に残っています。

桜井一郎さんと隣りの藤野芳夫様宅が祭礼の会場でしたね。神輿が陳列されて
尾曳神社の田島義平神主がお払いに来ました。

余談ですが、先輩の旧ご実家につながる道の入り口に寺内時計店、奥澤万年筆店、
山本電気商会と対抗する電器店がありましたね。
笑ってはいけないのですが「乳もみ羽鳥」という看板に少年時代、心うきうき
させられました。
野代さんという氷屋さんのおばさんは優しい、私の憧れの女性でした。
いつも氷を山盛りにしてくれました。たった10円の赤いイチゴ味が好きでした。

諸先輩との再会を楽しみにしております。


2015年6月8日

島田 尚彦
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[返信]田中より島田さんへ

島田さんへ タイムスリップしたかのように鮮明によみがえる鷹匠町の記憶。
島田さんの的確な文章に魅せられました。 ありがとうございます。
白石幸一さんの名前も実に久しぶりです。 しかもあの木製の玩具、カタカタがイッキに甦りました。 カタカタの他に赤ちゃんが乗って移動する、円形の椅子のような,形容しがたいものも作ってましたね。
モスリン新道を隔てて対面側は鷹匠町でなくて大名小路だったのですね。 群農会も懐かしいです。
寺内時計店と野代さんちの駄菓子屋さん周辺は私の家の一部のようなもの。 今でもあの街並と濃密な空間を夢にみるのです。 寺内さんと野代さんの店の間に約1間ほどの路地があり、出入り口に木戸があって 夜になると寺内さんが門を閉めていたのですよ。 まるで江戸時代の長屋のような暮らしです。 そうした暮らしを実体験していて、とても良かったです。 江戸時代の人々の暮らしを調べていても、その営みが身体感覚として理解できます。 あの昭和30年代までは江戸時代と地続きだったのですね。

(2015年7月28日アップ。7月体調を崩してサイトの更新ができませんでした。)