【菊竹清訓設計・館林市庁舎 建築データ】

[ 資料探索 Vol.1 ]
勘と運を働かせて「館林市広報紙」を調べる。大正解!!


館林「市政だより」発見!(昭和38年発行)
半世紀も昔の広報紙だ。

市政だより昭和38年▲館林市図書館蔵「市政だより112号」表紙。市の広報紙。(2017年4月5日発見!)
 調査方法は地道に探すこと、図書館の力を借りること。
 館林市の広報誌が昭和の時代も発行していたはずと思い、図書館に電話。あった。 
 昭和38年の竣工年を調べていただいた。ヒット1! 感謝です。
市政だより
▲館林市図書館蔵「市政だより/新市庁舎特集号」表紙より。

[ 資料探索 Vol.2 ]

竣工当時の建築雑誌を検索。
「建築」1963年9月号に掲載情報があった。

代表的な建築雑誌「新建築」1963年8月号に掲載されているはずだが、古書店に連絡して調べてもらっているが記事が無いという。
「建築」誌は神田神保町の建築専門古書店「南洋堂」で入手できた。
菊竹清訓特集で、「出雲大社庁の舎」と「館林市庁舎」が詳しく掲載されいる。

菊竹清訓資料02 ▲「建築」紙面。館林市庁舎の美しい写真が沢山。感激興奮。 出版社「青銅社」刊「建築」は1975年に惜しくも廃刊。

 

ニュース:ようやく「新建築」誌 1963年9月号を入手】

建築雑誌の雄である新建築社発行の雑誌「新建築」を探していた。
2017年4月25日入手。28日宅配された。

「入手までの経緯」
入手方法のスタートはネット検索から。キーワード「菊竹清訓設計 館林市庁舎」で古書を検索。
神田神保町の建築古書専門店「南洋堂」で「建築」(青銅社)を入手できた。(上記に掲載済み)

次に雑誌「新建築」を探した。が、どこも在庫がなかった。
新建築社のホームページで過去に出版された雑誌の目次データベースが提供されているのを見つけ、リストを探す。→ 1963年8月号に「館林市庁舎」の記事が見つかった。

さっそく他の古書店で 1963年8号号を検索。1軒の古書店で在庫が見つかった。さっそく注文。
念のため、 注文メールで「館林市庁舎」の記事を探してますと一筆書いた。
(しかも「館林市庁舎保存活動プロジェクト 田中茂雄」と書いた)

さっそく古書店の方から親切な返信メールが届いた。
「 8月号の在庫はあるが、内容を調べたところ「館林市庁舎」の記事が掲載されてない。それでも注文しますか?」と。

暫くやりとりがあって、判明したことは、新建築社のデータベースが間違っていたということ・・・。
さらに調べると9月号に「館林市庁舎」の記事が紹介されたと分かった。
残念ながら親切な古書店には9月号の在庫がなかった。 他の古書店も検索したが無い。諦めかけた時に幸運が。

偶然、「ヤフオク」に新建築1963年6月〜12月号の合本が出品されという情報を見つけたのだ。
オークションの期間は1週間。まさに奇跡的。即入札。
4月25日に無事入札できた。幸運。

下の写真がその「新建築」である。
貴重なものであったが、内容は期待を損なうものだった。
探していた田中一光の作品がカラーで紹介されてないのだ。
編集の杜撰さに。雑誌「新建築」に対するイメージが低下した。本当に残念だ。
廃刊になった「建築」(青銅社発行)の内容が素晴らしかったので、大いに期待したのだ。
それが手抜き編集だったのだ。(たったの6頁では話にならない。)
---悪貨は良貨を駆逐する。言い過ぎか-----
とはいえ貴重な資料なのは間違いない・・・。
期待が大きかった分。ショックが大きいだけなのだと思いたい。

1963年9月号「新建築」
▲「新建築 1963年9月号」新建築社発行  
 (2017年 4月29日アップ)

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【館林市庁舎 建築データ】

館林市庁舎建築概要
▲館林市庁舎の建設資金は1億5千5百万円。現在の貨幣価値に換算すると幾らになるのか?
 建築工事は大成建設が施工。 立面図が美しい。重力に抵抗する菊竹清訓の特徴を感じる。「東光園」(菊竹清訓設計・1964年竣工)との共通点もみられる。
館林市庁舎平面図
▲平面図は「建築」誌より。転載。(2017/05/01)
※平面図左2番目のキャプションで2階平面図と書いてあるのは間違い。[1階平面図」が正しい。3番目の平面図は「2階平面図」が正しい。(勝手に校正しました)(2017年4月11日アップ/5月1日修正アップ)
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以下続々と調査データを発表します。乞うご期待。
市長舎の見方が変わるはずです。文化財であることが知らせるのが私の役目と自負している。
(2017年4月11日アップ/5月1日修正アップ)
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【 菊竹清訓、館林市庁舎の設計について語る! 「建築」誌 1963年9月号掲載(116/117P)】

「館林の柱」 菊竹清訓 原稿

 館林市庁舎の建築を著しく特徴づけているのは、7枚のスラブを支えた4本の巨大な柱であろう。
柱の平面は、階段・エレベーター・シャフト、ダクトスペース・便所等を収容して、それぞれの大きさに相違はあるが、ほぼ4m角で、地階から屋階までを結び、高さ25.6mで空にそびえ立っている。
 壁柱ともいうべき、この巨大な柱は、セコニック高層工場からの発展とも見ることができるが、壁柱の取扱において、応力に準じた断面を増して、いわば、つけ柱、つけ梁といった処理を試みており、このため柱の外観は下部から上部に向いて、断面の変化を、よく見ることができる。
 もし積層した部材による光弾性実験が得られるとすれば、その縞の分布は、構造的合理性を立証してくれることであろう。
 これは、応力に適合する架構から、応力を積極的に視覚化し、表現する架構への発展として見ることもできるように思う。
しかし柱のみでは架構ではない。柱とスラブが一つの架構として解決されていなければ、架構とはいいがたい。
 館林市庁舎においては、巨大な4本の柱と、特殊なスラブの解決による突出したカンティレバーと共に架構としての強い印象を与えるのではないかと思う。
 その強さは、構造技術のもつ強さであり市庁舎という機能体型を構造という一つのテクノロジーで媒介するとき求められた強さでもあった。 ただ今日の構造技術は、必要以上の強さを誇示することも、また必要以下の繊細さを表現することも、同じように可能であろう。
 ここで必要にして十分は合理性と、均衡が意味を持ってくる。 われわれは好んで柱の強さのみを、目指したわけではない。市庁舎の生活空間をサポートするテクノロジーの表現を、ただ力強くのぞんだにすぎない。したがって柱のみの強さであり、架構の強さを代表する柱の強さである。
 柱は、都市という広い空間に、場をつくろうとするための強さであろうとしたともいえる。柱は市庁舎を支えると同時に、都市に支えられるという表現でなければならないからである。 オベリスクのような柱もあれば、 白井晟一のえがくギリシャの神殿の柱もあろう。
 しかしわれわれの選んだ柱は、これらの柱とは異なって、館林市の柱となるべき柱として独自の強さをもつことになったのである。
われわれが,決して柱とか架構を建築の本質とは考えていないことは、すでに設計理論において明らかなところである。ここではとくに「かた」の設計で、テクノロジーを媒介として出てくる市庁舎の「かた」における構造技術の問題に、簡単にふれたにすぎない。  菊竹清訓
 (2017年5月14日、雑誌誌面より転載。)
建築1963年9月号 菊竹清訓執筆▲「建築」誌1963年9月号116ページ紙面。菊竹清訓の署名原稿が掲載されたページ。

4本の巨大な柱が館林を支えるという。4本の柱と7枚のスラブ。シンプルな構造だった。
※階段室は柱だったのだ。納得。

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「庭園と池の写真」発見!
-----造園計画----

子ども時の記憶では竣工時、庁舎の周囲は池と庭園に囲まれていて、庁舎まではブリッジを通って入る動線だった。
その写真を探していた。(懐かしの写真コーナーで募集していたのだ。)
さすがに専門雑誌の記事だ。外観写真がていねいに撮影されている。クレジットを見て驚いた、撮影者がなんと二川幸夫だ。
建築写真界の巨匠であり、建築評論家でもある。すごいことだ。

わかりやすく伝える目的で紙面をスキャンし加工して掲載する。(二川幸夫の写真に加工するのは緊張する。)
美しいぞ館林市庁舎。写真のクォリティが高い。さすが巨匠である。

旧館林市庁舎外構 ▲昭和38年当時、マイカーを持つ家庭は極めて少ない。車社会ではなかった。竣工後数年してモータリゼーションの波がくる。窮余の策として、池と庭園が埋められて無味乾燥なアスファルトで舗装された駐車場となったのだ。
それにしても竣工時の庁舎と庭園は美しい。
池はお堀のイマージュであり、建築のブリッジ(渡り廊下)は城への太鼓橋である。
(2017年4月18日アップ)

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「サッシュ詳細図」
--入口スロープ--

渡り廊下(スロープ)の南面は美しいサッシュでデザインされた窓。モダニズムデザインが不思議な懐かしさを演出。
建築雑誌「建築」1963年9月号にサッシュ

図面が掲載されていた。
内部写真と併せてご紹介。(2017/04/30アップ)
玄関サッシ詳細

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