ギャラリー/館林城・城下
千貫門は三の丸の北面中央に位置し、城の正門である大手門と同様、城内にある重要な門のひとつ。その形態は渡櫓門で三の丸の土橋門(通用門)に対して武士の正門とされていた。
館林城千貫門跡石碑・レリーフ 館林生まれの版画家・藤枚義夫の作品より制作された。石碑は昭和59年3月31日館林市教育委員会により建立。
石碑面のレリーフは、館林出身の画家・藤牧義夫(1911〜1935)の作品「三岳画集」に所収されているものであり、尾曳稲荷神社に奉納された絵馬を参考に描いたものともいわれる。
藤牧義夫(1911-1935?)は、創作版画の分野で1930年代に活動した木版画家。1911年に館林に生まれ、少年期から絵の才能を示し、16歳で上京して働きながら独学で木版画を学ぶ。藤牧は、関東大震災後に復興した1930年代の東京の風景を、上野や浅草などの町並みを中心に、独特の彫りによる木版画で表現。しかし1935年に行方が分からなくなる。藤牧義夫は、ごく短い制作活動ゆえに幻の版画家として一度は埋もれか けたが、1978年の展覧会により再び注目を浴びている。2012年、鎌倉の神奈川県立近代美術館でも、館林美術館と同じ生誕100年の「藤枚義夫展」が開催され、好評を博した。(詳しくは歴史サイト藤牧義夫を参照)
「上野国邑楽郡館林町全図」の地図は、江戸と現代をつなぐ資料としてとても貴重だ。
明治7年(1874年)3月、大名小路にある武家屋敷から出た火が城内までおよび、建物の多くを焼失。報告によれば、千貫渡櫓門(25坪)、千貫門番所(10坪)焼失。木製も千貫橋も焼けたのだろう。(地図に橋の記述がない)その後、橋があった場所が埋められて堀が分割された。なじみのある三の丸の堀ができた。(現在は駐車場になりはてている)
「上野国邑楽郡館林町全図」より(明治9年刊)
現在の千貫門の佇まいはこんな感じ
千貫門の石碑。市役所の入り口にあたる。この石碑の前の道は堀。堀には橋(千貫橋)が架かっていた。(2012年3月25日撮影)
写真の左奥が千貫門。右の戸部牛乳店のあたりが丸戸張門。クランク状の道が本丸へ続く正式ルートだった。
道の西側には土塁が築かれ、土塁には瓦を乗せた、白壁の塀があった。三の丸の土橋門の内側と似ている。(現在は民家が建っている)
現在の千貫門脇の堀の跡。駐車場になっている。子どもの頃(昭和30年代)は、けっしてきれいな水ではなかったが、
それなりに風情のある堀だった。冬は日陰の部分に氷がはり、近所の子どもたちの遊び場だった。(2012年3月18日撮影)