遍照寺トップ 遍照寺は城下町から外れるが、館林城の入城を整えるお寺でした。日光脇往還・江戸口御門手前に位置するのは意味があってのこと。
江戸から館林へ訪れたお殿様一行は館林城に入城する手前の遍照寺に寄り、身支度を整えてから江戸口御門へ。
江戸口御門までゆっくり歩いて10分。ちょうど良い。
 本文後送(遍照寺の解説)。

遍照寺山門▲遍照寺山門。柱が朱色に塗られている、いわゆる赤門だ。


【代々伝えられてきた遍照寺の寺宝】
❶ 「岩佐又兵衛作・山王祭屏風』六曲一隻

重要文化財クラスの屏風絵をホームページ上とはいえ、公開できるのは初めての快挙だ。ご住職の決断に感謝します。
今まで屏風絵を掲載した資料を見てない。(たぶん公開されてない) それにしても、屏風絵を前にして震えるほどの感動を味わっている。 作者は岩佐又兵衛なのだ。
まずは全体像をごらんあれ。

山王祭屏風全景▲丁寧に保管された箱から取り出して屏風を開いた写真。2年前に修復作業を終えていて屏風そのものは新しい。

【屏風絵の解説】

お題は『山王祭図』山王祭とは日枝神社のお祭り。
東京では赤坂日枝神社のお祭りも山王祭で私の住む番町は氏子エリアなので毎夏山王祭の祭りがある。
屏風の絵は比叡山の麓の町、滋賀県大津市坂本にある日吉大社の山王祭だ。

坂本といえば、明智光秀が築いた坂本城があった。本能寺の変で活躍した明智左馬之助(秀満)が光秀の妻子を刺し、明智が所有する名物(茶器や財宝など)を敵に渡してから城に火を放ち落城したことで有名な城。美談がのこる城だ。明智左馬之助は松永弾正と比較されるね。弾正の意に反して平蜘蛛茶釜は破片を集めて修復されたのだが・・・
(館林城の再建をめざす会のホームページなので城の説明が長くなる)

坂本の日吉大社は、日吉・日枝・山王神社の総本山。
京都の鬼門にあたる場所であるので、京都の鬼門除けの神社だ。関東でいえば日光だね。
日吉(ひよし)とはもともとは(ひえ)と発音したようだ。東京赤坂は日枝神社という。

ひえの山なので比叡山となったそうだ。(ひへぇ〜)
日吉大社の方が比叡山延暦寺より先にできたわけだ。

最澄は延暦寺を築く際、地山の神様であった日吉大社を延暦寺・天台宗の守り神としたのだ。天台宗の拡大とともに全国に日吉神社が広がった。
天台宗からのネーミングで日吉大社の神様の名を山王権現とした。山王権現のお祭りが山王祭となった。(神仏習合の時代はいいね)
延暦寺のバックアップなので山王祭は賑わいをみせた。全国に祭りの知名度が上がり山王祭の賑わいを伝える屏風絵が創られたわけだ。大名家からの需要があったのだ。 (クライアントがあっての作家なのだ)

戦国末期から江戸初期にかけて需要のあった屏風絵の代表は、京都観光ガイドマップである「洛中洛外図」だ。
狩野永徳の「洛中洛外図」は織田信長が田舎に住む上杉謙信への懐柔策として贈った屏風。華やかな都会の風景画がもてはやされていたのだ。謙信も喜んだに違いない。その屏風は今や国宝となって残っている。(上杉本)
たくさん制作された「洛中洛外図」の中で国宝はふたつだけ。ひとつは上記の上杉本と、岩佐又兵衛作の舟木本だ。

遍照寺の「山王祭図」もこうした時代背景のなか描かれたもの。
よく見れば、「洛中洛外図」と構造が同じだ。
賑やかな街の様子。観光名所の神社(日吉大社)の建物。左下の船着き場(琵琶湖かな)から日吉大社までの沿道。
人々の暮らし、様々な職業の人達。観ていて楽しいし山王祭に参加した気分になるね。

ちなみに又兵衛の「洛中洛外図」にはおよそ2500人の人物が描かれているという。当時の風俗を知る貴重な絵なのだ。
山王祭図の人物数はまだ数えてない。(解説文は1月24日追加)

山王祭屏風連結▲撮影を許されたので1枚ずつ撮影し、画像処理ソフトで一枚に連結。(画像処理・田中茂雄)

屏風と会長絵画のすばらしさに唖然とした私。至福の時だ。顔が呆けているね。(笑い)   撮影;2018年1月18日

         *
屏風絵の解説は後ほど。鋭意調査中です。乞うご期待。

岩佐又兵衛】とは

又兵衛は戦国武将・荒木村重を父に持つ。
天正6年(1578)10月。織田信長家臣であった村重は信長に反旗を翻して籠城、謀反を起こした。
明智光秀、羽柴秀吉や黒田勘兵衛らの説得も不発に終わる。黒田勘兵衛は城の牢屋に1年間も閉じこめられてしまう有様に。
信長の怒りを買い、信長の残虐性を世間に見せつけた一族皆殺し(一族・家臣を含め約670名が処刑された)という末路を迎えた。
村重本人は逃亡。村重の幼い息子又兵衛は数えで2歳なので満1歳、乳母の機転により救い出されて逃げ延びた。(石山本願寺へ)
その子が成長し、日本美術史にのこる偉大な芸術家・岩佐又兵衛になるのだ。歴史はダイナミックだね。

岩佐又兵衛は福井藩のもとで20数年過ごす。(結城秀康の嫡男・二代目藩主忠直の招きによる)
私のご先祖は福井藩士なので、岩佐又兵衛には関心があり以前から調べていた。

昨年10月から、お寺紹介プロジェクトを構想し資料を集めていた。
館林市立図書館が発行した「館林の寺社」の遍照寺紹介ページに「岩佐又兵衛作屏風絵」の文字が目に飛び込んできた。
まさか、館林のお寺にあの岩佐又兵衛があるなんて・・・驚愕!!
信じられないと思ったが、遍照寺は榊原家の祈願所と紹介されていた。調査のため遍照寺を訪れると本堂の屋根に榊原家の家紋「源氏車」があった。
徳川四天王の榊原家と深い繋がりがあるなら遍照寺に岩佐又兵衛があっても不思議でない。時代的にピッタリ重なる。

ぜひ、岩佐又兵衛を確認したい。この目で見たいと思い、人に会う度に何とかならないかとお願いした。
しかし、館林では「岩佐又兵衛」誰!? という感じ、しかたがないね。

岩佐又兵衛の評価は近年ますます高まっている。
なにしろ浮世絵の元祖といわれる人物だし、近年(2016年)国宝となった「洛中洛外図(舟木本)」の作者が岩佐又兵衛。(定説となった)
とにかく上手いし、パワフルだ。同時代の長谷川等伯狩野永徳と肩を並べる。むしろドラマチックな出生エピソードを持つので前者二人より知名度が上だと思うのだが。贔屓し過ぎかも・・・。

    ◎
岩佐又兵衛作「洛中洛外図」との比較
一例紹介洛中洛外図との比較

▲遍照寺の屏風絵は金箔がはがれ、退色してしまったが、舟木本を参考にしてイメージすればよい。
本来は黄金の輝きを持つ華やかな屏風だった。
構図、家屋の描き方など同じである。
    ◎

【代々伝えられてきた遍照寺の寺宝 その2】
❷ 「中将姫御髪曼陀羅』一幅 (掛け軸)

館林市立図書館発行の「館林の社寺」口絵(カラーページ)に画像が紹介されている。実物を見せていただきました。
色鮮やか織物をベースに刺繍で描かれている。中央の大きな梵字は仏様。(名前を教えていただいたが失念。)
梵字が毛髪が織り込まれているのだ。
古来日本では毛髪に霊力が宿ると信じられてきた。しかもこの毛髪、伝承では中将姫のものという。それならば途方もないパワーを秘めている。なにしろ生きながら極楽浄土へと旅立たれたお方だ。
奈良の当麻寺本尊である当麻曼陀羅 を一夜で織り上げた伝説のお姫様なのだ。
撮影を許可していただいたので、画像を紹介。
中将姫毛髪曼陀羅
    ◎
【中将姫について】
奈良時代天平のお姫様で、なんと藤原鎌足(不比等)のひ孫にあたる。本物のお姫様だ。
昔の人はよく知っていた人物。今はほとんどしられてないが、漢方薬でおなじみの津村順天堂のマークとして描かれているお姫様が中将姫。婦人薬の中将湯のパッケージになっている。婦人薬・中将湯の作り方を教えてくれたのが中将姫とされる。(ツムラに伝わった物語)
浄瑠璃や歌舞伎にの題材にもなった「中将姫伝説」が伝わっている。
          ◎
この掛け軸を遍照寺へ寄進した人物(紀伊国屋清左衛門)の添書が残っている。
今回、遍照寺ご住職の好意で寺に伝わる寺宝を拝観できた。お礼として「添書」の解読を申し出た。

私は館林城の再建をめざす会を立ち上げてから、館林の歴史研究に時間を割いてきた。古い文書が読めればなんと素晴らしいことかと重い古文書解読の勉強を始めた。
解説書による独学では成果が上がらす、昨年から古文書解読の教室へ通っている。教えてもらうのは効率的。何事も先達はあらまほしかれだね。
自分では解読できなくても、先生の協力を得られれば可能と思い、申し出たわけだ。

1月22日(月)古文書教室があり授業のあと先生に相談。
その結果をまとめて発表する。(先生は目黒区の博物館学芸員です。感謝)
添え書と外箱▼添え書の拡大と解読文、そして意訳を紹介。私の知識では6割しか読みこなせない。残りは古文書の先生のサポートで可能になった。専門家は素晴らしい。感謝です。

下の写真は2018年1月31日に完全版としてアップ
  (1週間前にアップした解読は2箇所間違いあり、訂正) 添え所完全版

【解明できたこと】

お宝物の元の持ち主は毛利家だった。しかも毛利本家だ。

註1)松平長州太守
初代長州藩主・毛利秀就(ひでなり)1595〜1651。毛利元就の孫のあたる。
毛利輝元の長男。正室は結城秀康の娘。秀康は家康の二男で初代福井藩主だ。秀就は毛利の嫡男だが、家康の臣下となり、松平姓を賜った。それで松平長州太守(長門守)と書いてある。添え状は徳川時代なので毛利とは書かなかったのだ。 毛利秀就二十歳の時、大坂夏の陣に参戦した。記録によれば秀就は冬の陣の参戦してないという。予想通りだ。

註2)家康様御陣中
豊臣を滅ぼした大阪の陣と推察される。収穫前で米が不足していたと考えると夏の陣(1615年4月)だ。記述によれば、紀伊國屋清左衞門の先祖は陣中の出入り商人だったようだ。兵糧米を用立て、補給の危機を救ったのだ。
兵糧の対価とともに感謝の印としてありがたいお宝を頂いたのだ。それとも代金の代わりにお宝を頂いたのか?
中島先生の見解では兵糧米の対価としてとして宝物を下げられたとしている。

註3)明和元年の時代とは
館林藩では越智松平家が藩主を務めた時代。松平武元は有能な藩主で将軍吉宗の信任も厚く。老中、老中首座までのぼり詰めた。また、田沼意次とも協力関係にあった。毛利家が所有していたお宝が時の変遷を経て、1764年館林へたどり着いた。歴史は面白い。

註4)紀伊國屋とは
紀伊国屋文左衛門。1669〜1736年。(ハッキリしない)。紀州出身。幕府御用達の木材商人となる。豪商。 屋号が紀伊國屋だ。
清左衛門は名前・年代から判断して二代目ではないか。晩年に「中将姫曼陀羅」を寄進したと考えられる。
(1月23日アップ)


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