最新情報/館林城調査・研究・提案

「小栗上野介忠順」研究の第一人者。東善寺の村上住職よりメールが届く。

2017年10月、東善寺のご住職・村上さんからメールが・・・。
10月22日(日)。館林の善長寺本堂新築落慶法要に出席するため館林を訪問するので、ついては小栗上野介父子・首級盗掘事件のさいナビゲートした細内村の渡辺忠七家から法輪寺までのルートを知りたい。
盗掘ルートを実地検証したいとのご依頼。

これこそ得意ジャンル。我が庭のようなエリアである。楽しいご依頼ありがとうございます。
法輪寺は我が家の菩提寺。細内は中学(二中)のエリアだ。
興味のあるお話しなので、よろこんでお手伝いしますと返信。

【館林・法輪寺から上野介父子首級を奪還した事件について】
協力者が住む細内から法輪寺までの進入ルートを考察する。

事前に資料を集めルートを推測した。図にまとめたので、サイトへアップ。
村上さんにメールで送りました。
(註)この案は後日、没案となりましたが、記録として残しておきます。
修正案はこのページ後半に記載。

小栗上野介父子首級段間ルート▲ルートは半世紀以上前の土地の記憶が鮮明に残っているエリア。

次に事件の顛末を整理しておきます。

[コラム]
小栗上野介父子首級盗掘事件。

 慶応4年(1868年)1月、小栗上野介は幕府より御役御免となり、領地である上野国権田村へ下野。(権田村の東善寺に移り住む。)
慶応4年(1868年)閏4月、小栗は東山道軍に捕縛され、4月6日、近くの水沼河原で3名の家臣と共に斬首された。享年42。
息子・忠道も高崎で斬首された。 小栗上野介父子の首級を総督府へ送る(送り先は館林城)。
東山道鎮撫総督・岩倉具定(岩倉具視の息子)は館林城にいた。館林城二の丸に御殿がありそこで首実検された。 父子の首は二の丸近くにあった秋元家祈願寺であった泰安寺に下げ渡された。泰安寺は秋元家と共に移ってきた寺であり墓地はない。
親しくしていた法輪寺住職・奥田明山(みょうざん)に頼み込み、法輪寺本堂西境内、杉木立の下に葬ってもらった。

1年後、明治2年(1969年)。(慶応4年閏4月に斬首、9月に明治天皇が即位。改元されて明治元年となる。7月には江戸が改称されて東京となる。) 明治2年、権田村百姓代・中島三左衞門と塚越房吉二人が命日にあたる4月6日夜に法輪寺から盗掘して権田村へ持ち帰る。 権田村では「お首級(くび)迎え」と言われている。
盗掘を手引きした館林関係者が新当郷村字細内の渡辺忠七さん。権田村との関係は。小栗上野介の知行地であった館林のお隣佐野の※高橋村名主である人見惣兵衛が関係する。 権田村中島三左衞門は地縁から高橋村の人見惣兵衛に相談する。 人見惣兵衛は細内の渡辺忠七の甥にあたる人物。叔父さんである渡辺忠七に相談する。
※高橋村(渡良瀬川沿いの村。国道50号線で太田から佐野に向かう場合、渡良瀬川の橋を越えた左側の集落。現佐野市高橋町)

渡辺忠七は義を感じて協力。権田村の二人を手引きすることになった。
明治2年とはいえ当時の館林は幕末と同じ藩体制だ。館林城への出入りは自由ではなく門で管理されていた。
信頼のおける人物の先導がなければ城内に入ることが困難なプロジェクトだったのだ。
 ※権田村の住人ふたりが法輪寺を訪問する口実は。
 「旧領主であり恩ある小栗上野介一周忌に父子を葬った墓に石塔を建てたい。そのお願いに訪れた」
 ※工作のため並木町の石屋に見積もりをとったという。
 ※並木町の石屋といえば田部井石材だ。私の親類である。田部井石材のお墓も法輪寺。檀家だ。

一方盗まれた館林サイドでは、事件の処理が行われた。
協力した渡辺忠七は事件後、館林藩に捕らえられた。釈明書「答書」を提出し無罪放免となる。 釈明書作成は館林藩士・塩谷荘三が原案を作成し無罪になるよう工作した。 (塩谷良幹と関係あるのか不明。同族だろうか?)
大変だったのは首級を盗まれた法輪寺だ。住職は謹慎となり、寺を離れることとなった。
その後、流浪することとなり苦労したという。 (一番の被害者は法輪寺ご住職・奥田明山さんである。百数十年後住職のご子孫が東善寺を訪れ、住職・村上泰賢さんと対面した。村上さんは権田村を代表し頭を下げた。ご子孫の婦人の目に涙があふれたという。実話である) 歴史は奥が深い。
以上。(コラムは10月23日追加作成。)

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【現地調査:10月22日(日)】

あいにくの雨、しかも台風が近づいている。
午前中、衆院選の選挙を済ませ一路館林へ。雨の首都高と東北道はガラガラ。1時間10分で到着。
3時半、法輪寺の山門で待ち合わせ。同級生のハルミさんの運転で村上泰賢氏登場。5月以来の再会でした。
法輪寺

法輪寺本堂西側、小栗父子の首級が埋められたという辺りを歩く。
なんと田中家墓地のすぐそばだ。ビックリ。半径10メートル以内だ。
ただし田中家ご先祖さまは昭和の始め頃、東京都文京区より移転してきたので明治2年の盗掘事件のことは知りません。

昭和に墓地を入手したのでその前は空き地だったはず?、ひょっとして・・・。空想は膨らむ。

遣米使節団としてアメリカを訪問した館林藩士 岡谷荘三郎、 岡谷家のお墓を村上氏にお見せした。
荘三郎の父・名家老・ 岡谷瑳磨介のお墓です。荘三郎のおばあさん、賢夫人・白蓮院様も眠ってます。白蓮院の娘・音羽さんは「お国替え絵巻」で有名な山田音羽子です。荘三郎の弟は南條新六郎。館林の経済界に大きな足跡を残しました。
新六郎は小栗上野介首級盗掘事件の調査を大正四年に行い、渡辺忠七さんの長男・覚三郎さんに真相を問い合わせた。
その文書が判明した。(村上さんの調査により)
※小栗上野介顕彰会機関誌「たつなみ」第42号に詳細が掲載。

南條新六郎氏は長澤理玄の調査にも協力。東京から医学博士・遠山椿吉氏が長澤理玄の足跡を館林に調査に訪れた際に協力した。
新六郎氏は日本製粉(ニップン)の創業者の一人としても有名。
南條家は私が生まれた鷹匠町の家の地主さんでもあった。( 岡谷家があったところ)
不思議な縁が満ちている。私は5〜6歳の頃に南條新六郎夫人と思われる老夫人を見ている。南條家に地代を納めに母と出向いたときのことだ。子どもの目には90歳くらいの老女に見えたた着物の着方と姿勢が素晴らしく、町屋の人間とも、母の実家である農家の老婆とも全く違う芯の強さというかオーラがあった。武家の婦人をこの目で見、鮮明な記憶に残っている。それを誇りに思う。
(以前にもこのサイトで同じ事を記している、強烈な印象だったのでしつこくてすみません)

●法輪寺からルートを逆にたどる。
雨のなか車でゆっくりと走った。目的地である細内の渡辺さんの家。
東善寺・村上泰賢氏
▲村上さんの笑顔が素晴らしい。激しい雨中東京からの往復も報われます。東善寺の番傘がオシャレ。
 

【細内〜法輪寺確定ルート】(田中の推定です)

盗掘事件は明治2年のこと。
地図(上)は明治17年、陸軍が大急ぎで作った迅速測図「館林町」。事件後15年後の正確な地図だ。
下の地図は幕末・秋元時代の館林城絵図。比較検討すれば自ずとルートがわかる。
法輪寺〜細内確定ルート
 詳しくは後にアップ。
館林から東京に戻ったのが7時半。サイトをまとめ始めて約3時間。集中力がなくなる。
取り急ぎアップ。東善寺・村上泰賢氏へ報告を兼ねたページになりました。
お疲れさまでした。

追伸
FMニュースでボクシング・村田諒太が勝利したようですね。良かった。良かった。
選挙では自民圧勝みたい。
(2017年10月22日アップ)

【村上泰賢さんからいただいた資料】

小栗上野介顕彰会機関誌「たつなみ」素晴らしい内容。
最新号が第42号(平成29年9月15日発行) 「お首級迎え」古文書を紹介してある号。
館林・細内の渡辺さんの調査では、館林第二中の同級生・中島茂登子さんが協力。撮影した写真も掲載してある。
東善寺で入手できます。

機関誌「たつなみ」  ▲広報活動を継続して行っている。左は「たつなみ」右は新聞スタイルの情報紙。
(2017年10月24日アップ)

再考:進入ルート】掘りを渡り土塁を越えて法輪寺への侵入ルート考察!

10月25日、村上氏よりメールが届く。
みやま文庫刊「小栗上野介」に進入ルートの詳しい記述がある。「柵を破り溝渠を渡渉し法輪寺の墓に至り、・・・」
前回調査した、通常の道を通り、加法師口門を顔パスで通行する案は否定された。
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それでは、堀を渡る案を考察する。
この辺りも土地勘があり、渡堀地点は容易に想像できる。

佐野口門番からも加法師口門番からも死角になる位置で、法輪寺への最短ルートだ。
資料として、昭和22年に米軍が撮影した館林の空撮写真が役に立つ。
侵入ルートを記入したので、ぜひ御覧ください。

みやま文庫刊小栗上野介
▲みやま文庫の記述をスキャン。
米軍22年空撮
▲米軍が撮影した昭和22年の館林。
細内から法輪寺へ至るルートを描いた。堀を着色してあるので館林城の輪郭がわかりやすい。
この写真を見るといつも思う。 幕末から昭和20年代まで城下町・館林は町の構造に変化がない。
この街並みを現代まで活かす都市計画をたて、実行したなら、関東有数の城下町として観光客に人気だったろう。東武伊勢崎線随一の魅力的な町になり、訪日外国人も多数訪れ活気に満ちた町になっていたはずだ。
今からでも遅くない、100年計画をたてよう。

小栗父子首級盗掘事件侵入ルート検証
▲法輪寺本堂西側には我が家の墓がある。写真に写っているかも。
侵入ルートの現場写真撮影は2017年10月26日。めずらしく好天でした。
(撮影・図版制作 館林城の再建をめざす会 田中茂雄)

【堀を渡るのが難なくできた理由】

堀の水草を取り除いたり、土砂をさらったり、土塁の草を刈ってきれいに維持管理をしていた。渡辺忠七さんも経験済みだ。
堀の水深、構造など理解していた。
註)館林藩領の村々は館林城内の堀藻浚いと土居草刈役が課せられており、
細内の農家でも堀の藻浚い作業をしており、堀を渡り土塁(居)を越えるのは慣れ親しんでいる。

他に 細内村では、大名などの大規模な通行があった際には、館林城下の助郷役として人馬を差し出していた、また御鷹捉飼場でもあった。また渡良瀬川で出水があった際には、北大島村へ水防人足を差し出していた。共同体としての役割分担(ご苦労様です)
(2017年10月29日アップ)