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「剣術修行の旅日記」の著者・永井義男の新作。
なんと「武士の絵日記(著_大岡敏昭)」の尾崎石城が登場!!】 
忍藩士・尾崎石城が残した絵日記がまたまた脚光をあびることに。

2013年の夏、書店で出会った永井義男著「剣術修行の旅日記」。
あれから3年。2016年夏、またまた書店で永井義男の新作に出会いました。
署名は長い、『下級武士の日記でみる江戸の「性」と「食」』。表紙カバーに見慣れた絵が・・・・。
石城日記の絵じゃないか!。思わず手にとる。
懐かしい。
永井義男「江戸の性と食」表紙

          ▲河出書房新社刊 2016年8月20日発行  1600円+税  著者・永井義男

購入して、まだ三日、まだまだ半分しか読んでません。
石城の他に4人の日記が紹介される。他にコラムとして牟田文之介の日記も紹介されている。

うれしいことに、明治になってからの石城の消息が記されていた。

「石城は明治維新にさいして、多いに忍藩のために尽力したため、その才識が認められ、明治元年にあらてめて設立された藩校「培根堂(ばいこんどう)」の教頭に任ぜられた。
廃藩置県のあと、明治政府に登用されて宮城県大主典に任ぜられ、明治七、八年ころ、任地にて病没したという。」
88Pより。

石城の絵はいいなあ。うまいし。
石城のイラスト
 ▲書籍の裏表紙カバーにプリントされた石城の絵。

石城を主人公にして映画を撮ってもらいたい。監督は山田洋二だね。
映画が無理ならテレ東の深夜枠の連続ドラマがいい。人気ドラマ「孤独のグルメ」の幕末版という感じ。
文人・石城のシンプルグルメぶりと絵描きとしての才能。読書家として知識。若い頃、政治で敗北した影もある。
性格は温厚で天然。主人公は松茂豊でもいいし、濱田岳もいいね。
幕末の武士のイメージが180度変わることまちがいなし。
             ●
時代小説の影響で、幕末の武士は口角泡をとばして激論し、剣による殺戮が横行・・・等々。
激動の時代であるかのような印象が強すぎるが、ほとんどの武士はのんびりしていたのだ。
同時期に全国を武者修行していた牟田文之介も剣術修行とたのしい飲み会がセットになっていた。
新撰組や尊王攘夷の志士なんてほんのひとにぎりの跳ねっ返り集団だったはず。
多くの武士は楽しく生きていたのだ。それでも明治になり、変化にはしっかりと対応した。(西欧列強の植民地化を阻止した)
対応するときはちゃんと出来たのだ。
日本の良き伝統だね。  
               ●

【内容は日記に記された記録を著者がわかりやすく紹介する形式。
本のタイトルはキャッチーだが内容はきわめて理性的 】

購入してわずかなので、半分しか読んでません。内容の紹介はいずれ後送します。
                                            (2016年8月23日制作:田中茂雄)

【渡辺崋山の旅日記「遊湘日記」が紹介されている。うれしいね】

歴史上の人物のなかで渡辺崋山はマイベストテンにはいる人物。なにしろ南小6年生のとき、南小の講堂で研究発表したのが渡辺崋山だった。(今思うに、渋い選択だった。秀吉でも家康でも信長でもない・・・。義経でもないし)
渡辺崋山は館林藩士・生田萬の人物紹介サイトで述べたことがある。
コラム・渡辺崋山
小藩・田原藩江戸詰めの藩士(後に家老)であった崋山は天保2年(1831)9月20日相模へ旅立つ。
目的地は厚木村(現在の厚木市)田原藩江戸屋敷は半蔵門外にあったので、現在なら半蔵門線→表参道→代々木上原→小田急線で厚木。約1時間の距離だ。

崋山は半蔵門から渋谷へ向かい。用賀、二子玉川から船に乗り(二子の渡し)二子新地へ。溝の口を抜けて荏田村(江田)(ほぼ半蔵門線と新玉川線と同じ通筋だ)。
荏田で日が暮れて升屋という旅籠屋に泊まる。

よく21日出発。 鶴間(相模原市へ到着)宿泊。(饅頭屋という旅籠屋)

22日鶴間を出発して目的地(前々藩主の元側室を訪ねる。元側室は農家へ嫁入りしていた)

足袋の目的を果たした崋山は万年屋という旅籠屋に宿泊。(厚木市)
文人崋山が宿泊ということで近隣の文人が集まり宴会に。崋山を引き留めてもう1泊。

24日厚木を出発。江戸へもどる。

現代ならば1日で十分。
しかし、崋山の旅は宿泊の先々で歓待をうけて、書をしたため揮毫し俳句もつくる。
文人が集まり親しく歓談する。豊かな時間を抱えきれないほどもっているのだ。

素晴らしいね。

詳しくは本書を購入してお読み下さい。

(2016年8月29日アップ)