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館林のお隣、明和町大佐貫のS田氏邸に伝わる綱吉時代の石垣石。

【石垣石探検隊:サポーターからの報告】 
S田さんより2013年12月写真プリントが届きました。


明和町S田邸石垣

昨年(2013年7月)「よみがえる館林城展」(三の丸芸術ホール展示室)でのこと、会場で穏やかで品のよいご夫婦が話しかけてきました。「綱吉時代の石垣の石が自宅にあります。」「石垣石の幾つかは庭園の庭石として置いてあり、ひとつは農道の車止めとして利用しています。」とのことでした。
S田氏は、代々、大佐貫(おおざぬき)で名主(庄屋)を続けてこられた由緒ある家柄。石垣石の他にも多くの古文書が残されているそうです。
素晴らしいですね。
連絡先をお伺いしたので、のちほど写真を撮りに行きますと伝えましたが、その後、日常の忙しさに流されて訪問できませんでした。
ずーっと、気になっていたのですが、夏から長沢理玄の活動準備などがあり、のびのびになっていました。

 そんな折り、S氏のご子息が館林城の再建をめざす会のメンバーである美容室「ウェイブ」に訪ねてこられ石を撮影した写真を届けてくれました。(2013年12月)本当にありがたいです。感謝いたします。

さっそく、プリントをスキャンしてデータとして保存し、サイトにアップしました。
S氏の写真は、石垣石の他に、ご先祖が関ヶ原の戦い(慶長五年、1600年)に出陣された記念に植樹した松の写真もありました。 歴史が今も生きてます。

私のご先祖も、徳川に加勢した田中吉政隊(軍勢3千)の一員でしたので、なにかのご縁ですね。
(私のご先祖は石田三成隊の島左近が率いる軍勢と最前線で対峙。戦功を上げて生き残りました。)

関ヶ原の戦いは、徳川四天王の榊原康政が館林城主となった10年後のことなので、S氏のご先祖は、榊原康政隊の一員として関ヶ原をめざしたと思います。康政は家康の息子の徳川秀忠軍(3万8千の大軍勢)の軍監として従軍。中山道を関ヶ原に向かう途中、上田で真田氏の抵抗に遭い動けず、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。家康は秀忠の失態に激怒、康政のとりなしで、なんとか収まる。
(よく知られたエピソードですね。)

関ヶ原の戦いは一日で終了したので、S氏のご先祖は、無事館林へ帰還したことでしょう。
一本の松に天下分け目の戦の記憶が繋がるとは・・・、歴史は面白いですね 。

S田さま、写真ありがとうございます。
石垣石の寸法を記録したいので、調査の際はよろしくお願いします。
                                館林城の再建をめざす会 田中茂雄
石垣石については当サイトの「石垣石探検隊」をご覧下さい。