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- 2014年11〜12月ニュース
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- 館林城・絵はがき/城下町城門シリーズ
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- 読売新聞掲載2013年11月1日
- 「よみがえる館林城展in足利」
- 種痘の碑(山形市)
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- よみがえる館林城展プラス情報
- 上毛新聞掲載2013年5月2日
- 上毛新聞・シャトル連載2013年4月
- よみがえる館林城展2013
- 石垣石探検隊
- 上毛新聞掲載2012年10月
- 「東北遊日記」吉田松陰
- 「お国替絵巻」山田音羽子
- 館林城絵馬(尾曳稲荷社蔵)
- 館林城・絵はがき
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- 堀・(土塁)調査
- 建築家による館林城研究
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- 榊原康政・調査
- 館林城調査
石垣をめぐる冒険
【城下町散歩のついでに、石垣石探検隊の成果をどうぞ】
2012年11月18日初出、2013年1月29日追記
お城といえば堅固な石垣と櫓のイメージ。館林城も綱吉時代はイメージどおりのお城であった。せめて石垣だけでも当時のまま残っていたら、館林は城下町として関東有数の観光地になっていただろう。年間120万人の観光客も夢でなかったはず。とはいえ、現実はなんにも残ってないので空想を働かすのみ。夢見る石垣だ。
徳川綱吉が館林城主となった寛文4年(1664年)幕府から城の整備・修築のため2万両もの大金が注入されて城沼に接する部分は石垣が築かれ壮麗な城となった。石垣の修築を担当したのは江戸の石工専門業者。(江戸城の石垣を作った同じ専門業者で、竣工時に尾曳神社へ大きな手洗いの鉢を奉納している)
刻まれた文字がようやく判明しました。(2014年6月16日
)「館林人物誌」福田啓作編昭和16年刊の綱吉のページに書いてある。
「御城内石垣中間江戸石屋源左衛門外二名、寛文五天乙巳三月吉祥」
写真を見ると三月でなくて五月と読めるね。疑問?
残念なことに綱吉の息子・徳松が夭折すると、廃城となり、城郭は破棄された。その後越智・松平氏が館林城主となり、復興。復興は松平清武が手懸ける。清武は将軍(6代将軍・家宣)の弟に当たるため、幕府へ3万1千両の見積もりを提出したが、5千両に削られた。幕府も綱吉の散財(幕府の財布は空っぽになっていたが、お金は世の中に回っていき、元禄文化が花開く。近松や光琳・宗達などの演劇・アートの他に関孝和の和算や安井算哲の暦学、貝原益軒の本草学などの自然科学も発達。)でお金がなかったのだ。
宝永5年(1707年)8月、館林領内へかつての城石探索のお触書きを出す。
城で使われた石の探索、捜索が始まった。(この流れが、2012年の石垣石探検隊に引き継がれている、エヘン!)
幕末の館林城(秋元時代)の資料によれば、大手門があった追手の枡形を形作る石垣が築かれていたし、城下町に通ずる門の周辺も土塁の補強に石垣が築かれていた。大手門の石垣は山田音羽の「お国替え絵巻」に描かれているので注目。
山田音羽「お国替え絵巻」より大手門の絵。描かれている門は棟門でこの門を通ると先に立派な櫓門である大手門がある。門の周囲は石垣と堀によって厳重に守られていた。
明治維新でこの門は不要になり撤去。石垣は石材として売られてしまった。堀も埋められた。堀の土塁を補強するための石垣が地中に埋もれていて、追手(大手)の整備のさいに出てきた石が、交差点の車止めとして利用されたと想像できる。(下の写真の石)
【大手門の石垣の一部がこんなところに】
館林城・大手門があった三角公園の交差点。まったく目立たない、タダの石だ。しかし、その形状と置かれた場所の歴史を考えれば、その石のもつ長い歴史と運命を感じられるはず。館林城はこんな所にも生きているのだ。三角公園を訪れたら、ぜひこの石を探して、触れて、歴史を感じてください。【太田口の石垣の一部がこんなところに】
灯台もと暗しとはまさにこのこと、会員の大田口支部長宅の駐車場で見つけた石垣の石。探していた物が、ちょくちょく訪れていた場所にあったなんて。今までどうして気付かなかったのだろうか、「人は見たい物しか見えない。」(カエサルのことば)敷地の境界線に使われている石は紛れもない、かつての大田口で使われていた石垣の石だ。大きさから判断していわゆる間知石(けんちいし、まちいし)といわれるものだろう。
【城内の石垣は石のグレードが上等だね】
城下町の堀の土留め用に使用された石と違い、本丸、二の丸、三の丸などの主要城郭に使用された石は大きさ材質もグレードが高い。この石にも、それぞれ歴史を宿している。綱吉時代からなのか、どの場所に使われていたのか、廃城のときはどうなったのか?訪ねたいことは山ほどあるのだが、口が堅くて教えてくれない。専門家なら、石材の産地、加工の方法、石組みの知識などを動員して多くのことがわかるのだろう。だれか専門家の方、メールください。1983年(昭和58年3月に完成した土橋門(復元))門の前に車止めとして使われているのが、かつての石垣の石。重厚な石だ。それと比較して復元された門の袖にあたる土壁の石積みは貼り合わせのまがい物(フェイク)だ。総工費3500万円では仕方がないが、次に修復するときは本物の石を積んで造りましょう。(フェイクでも無いよりはまし。復元してくれて感謝です。)
【尾曳稲荷神社で発見!2013年1月の情報】
尾曳稲荷神社の境内。たくさんの石垣の石が発見できて楽しい。(2013年1月27日追加更新)
探検隊番外編:本丸に使用されていた間知石。平成元年発掘。
館林市史「館林城と中近世の遺構」120ページより加工して転載