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【種痘の碑/山形市薬師公園】

2013年9月29日好天。早朝6時に東京を出発。山形まで往復800キロ。日帰り取材の敢行です。
長澤理玄プロジェクトの勉強会までの資料作りのためにどうしても、種痘の碑を調査しなくてはなりません。
弾丸取材なので一人でいきました。往復10時間の運転。 お天気とはいえさすがに疲れます。夜11時帰宅。
取材は薬師公園の種痘の碑、理玄の生家のあった七日町。山形城趾「霞城(かじょう)公園」、そして隣町の上山町の上山城。超ハードな取材でしたが、成果はそれ以上です。後に発表します。
まずは、「種痘の碑」のレポートから。

碑の寸法を測っているときに、一人で苦戦。みかねて公園で遊んでいた親子が手伝ってくれました。メジャーを持ってもらって、無事に測ることができました。こどもがとてもかわいい子でしたので、碑のモデルになってもらいました。よい写真が撮れました。感謝!

種痘碑_組写真

【種痘の碑】
石碑は大正9年に遠山椿吉(理玄の父・周玄の門弟で遠山元長の長男)が再建したものである。
もともとは、安政3年(1856)、長沢理玄の門人たちが、山形市片町本久寺に建てた。明治14.5年頃、新道建設のときに石碑は壊され忘れられた。石碑の拓本が遠山家に保管されていて、それを元に再建された。遠山椿吉(ちんきち)さん、素晴らしい業績です。

碑文は読みやすいカナ混じりの和文。撰文をしたのは館林藩の国学者石川直幹(なおもと)で岡谷瑳磨介の兄。姉は「お国替え絵巻」を記した山田音羽子である。

碑文

【碑文について】
石川直幹の撰文は以下のとおり。

夫痘瘡は小児の大厄難にて父母丹誠の愛子も瘡痕となり顔色俄に変じ
或いは盲人となり重きは死亡する者昔より今に少なからず
時に嘉永二酉年 阿蘭陀牛痘法相渡り万民に助多し 爰に秋元公の藩
長沢理玄先生此法を伝え得て此地に来て広く施療したまう事千有余人
然ば厄難を免れ小児の成長を希はば早く疑惑を去り
天然痘引受難儀に及び後悔あらんより牛痘を植て安心し給へと云う

  子をおもう親のまよいのあやしきはすくはるるをもいとふなりけり
  子のためをまことにおもう親ならば牛のかさをうえさらめやは
                    安政三丙辰歳二月建焉