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Big News! 吉田松陰が館林を訪問していた!

松陰画像
▲有名な松陰の肖像画ですが、これは似てないらしい!「キツネ目ではなかった」
松陰の教え子たち長州閥の要人が明治の世になってから、この肖像画は似てないので、松陰先生に似た木像を制作することにした。
そのお顔は落家の円楽師匠(先代で五代目三遊亭円楽)によく似ているのだそうだ。
(出典;歴史家・磯田道史 2015年1月28日読売新聞より)
円楽師匠は長州出身で本名は吉河寛海(ひろうみ)毛利氏の一族吉川氏の系統とのこと。毛利系の武士の顔ということだ。
(この解説は2015年1月31日追記)

【知らなかった:松下村塾の吉田松陰(22才の時)が館林に足を踏み入れていたとは・・・】 
2012年9月17日

東北遊日記東北遊日記館林「東北遊日記」慶応4年出版。吉田松陰著 近代デジタルライブラリーより、扉と館林の記述ページ。

明治維新の原動力となった松下村塾の吉田松陰が館林に来ていたなんて知らなかった。会員より寄贈された写真集「川島維知編・館林」101ページに三の丸の土塁の写真があり、そのキャプションに吉田松陰が館林に来たと書いてあった。それが事実なら凄いことだ。

さっそくネットで検索。吉田松陰のウィキペディアを調べると・・・・・嘉永4年(1851年)、友人である宮部鼎蔵(みやべていぞう・池田屋事件で新撰組に襲われて自刃、池田屋の集まりのリーダー的存在。)らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。・・・ウィキより。(詳しくはwikiでどうぞ・吉田松陰

この東北旅行の途中に館林に来たと推測されるので、その記録を検索。「東北遊日記」という書物を残していることがわかった。これに間違いないと確信。国会図書館のサービスで近代デジタルライブラリーというサービスがあり検索。読み進める。
「東北遊日記」の140ページあたりにようやく館林が出てきた。漢字ばかりの文章で読み進めることに時間がかかった。疲れるね。

松陰は満22歳の時、和暦・嘉永4年12月から4月にかけて東北遊歴の旅に出た。江戸(嘉永4年12月14日)─水戸、ここで宮部鼎蔵・江帾(敵討ちが目的、優柔不断であり松陰に迷惑をかける)と落ち合う─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─館林-江戸(4月5日)。江戸から水戸へ行きそして東北を旅行、江戸へ帰る前日(嘉永5年4月4日・1852年)に足利経由で館林に寄ったのだ。短い滞在だった。それは知人に会えなかったから、知人の三科文次郎が城内に住んでいたので、松陰一行は城内へ入ろうとしたのだが、現・三角公園あたりにあった大手門で検問に合い、城内へ入れなかった。役人のチェックも厳しいね。ケータイがあれば、知人に会えて1泊くらいはしただろう、そうすれば館林の感想をもっと書き残したにちがいない。それを読みたかった。

松陰一行のルートは、多々良の木戸から大街道を通って太田口門へ入り、城下へ。そのまま塚場町を直進し郵便局の脇を抜け三枡屋の前を通り、大手門まで行ったはず。追手(大手門)でひともんちゃくあった後、江戸へ向かう。
その後は江戸口から松原村を通って羽附へ板倉方面へむかいひたすら江戸へ。途中、松原辺りから城沼越しに三の丸を見る。そこで土木工事をしている武士達の姿を目撃していて書き留めている。(原文を素人的に読みこなしました。もし間違っていたらごめんなさい。)
足利の記述が多いのは中世の大学・足利学校があったからだ。さすがに松陰は学者なので、足利学校に敬意をはらっていたのだ。

【吉田松陰も見た高鳥神社社殿は現存】

松陰一行は館林を後にして、板倉へ向かい、高鳥天神(1234年創建、現在の社殿は嘉永元年1848年に建てられた。松陰はその5年後に高鳥天神を見たわけだ。松陰が見た同じ社殿に、ぜひお参りして松陰を偲びましょう。)のそばを通り、利根川から舟で下る。関宿で舟を乗り換えて江戸川をくだり、5日の午前10時に江戸橋に到着。(江戸時代の河川は現代のハイウエイ。館林は江戸へのハイウエイが通る交通の要所でもあった。)
4月10日長州藩邸へ帰藩した。宮部とは5日の夜に別れた。宮部は熊本藩邸へ。松陰は4月18日に江戸を立ち、5月12日に長州・萩に到着。脱藩の処分を待つ。12月9日、処分が決定。「御家人召し放ち」武士の身分を剥奪され、俸禄カット。父の監督下へ。(ただし、松陰は藩から期待された人物であり、以後自由な活動ができるようになった。

それにしても、松陰先生はただものではないね。館林の地名を的確に誤字もなく書き留めている。まるで歩きながら書き留めていたかのようだ。抜群の記憶力と表現力。天才だね。幕末志士の行動力はすごい。7年後、松陰は安政の大獄で刑死。満29歳だった。
東北遊日記まっぷ▲東北遊日記の中の松陰の行動マップ(2013年6月制作)

【館林藩士・三科文次郎屋敷を探索。発見!場所は裏宿だ】

三科文次郎地図
「地図:館林城絵図・秋元氏時代(進藤家旧蔵)」
三科家は松陰が検問にあった大手門から直線で約450メートル。(図では600メートルと書いてあるが450メートルが正しい)裏宿という落ち着いた侍屋敷の建ち並ぶ地区にあった。中・上級武士の家が集まる場所でもある。(同級生のM沢君の家の斜め隣だ!赤坂せんべい屋の隣だ)
三科文次郎のことは不明だが、あの吉田松陰が訪ねてくるのだから、長州と関わりのある学者なのだろうか?
(2013年2月に判明、文次郎は館林藩兵学師範で吉田松陰とは江戸で山鹿素水(兵学師範)の同門。兵学者だったので、推論はあたり)
当時の藩主は秋元志朝(あきもとゆきとも)で、志朝は長州藩の支藩で徳山藩藩主・毛利家生まれ(志朝の母が秋元家から嫁に入った関係で、秋元家の養子になる)。その関係で長州とは深い繋がりがあった。 松陰と三科文次郎の関係を知らないので推測するしかないが、松陰と宮部一行が無事に大手門を通過して、三科家に数日とどまり、学問所で講義をしてくれれば、よかったのに。残念すぎる。 (2012/10/17追記)

【館林藩士・三科文次郎について少し判明したこと (2013年2月11日)】

三科文次郎と松陰は江戸の山鹿素水(やまがそすい)の同門であった。文次郎は館林藩兵学師範であった。
(「疱瘡長屋の名医・種痘に賭けた長澤理玄の生涯 」石村澄江著の6Pに上記のことが書いてあった。)
もうひとつは、
安政元年(1854年)江戸詰めの使い番という役職だった岡谷繁実と一緒に、その年の2月、横浜村にペリーと幕府の応対を見学に行った。繁実は、そのときの「日米応接場」を絵図に書き残している。
(館林双書第23巻「 岡谷繁実の生涯 」37ページに記述あり)2013年2月11日追記


【吉田松陰の足跡探索。足利から館林へ、そして板倉から舟に乗る】

吉田松陰の著作「東北遊日記」に記された地名は現在でものこっているのでルートが正しく判明できる。
以下の地図はそれをもとに書き下ろした。
東北遊日記館林地図 2013年6月地図を制作。2013年8月5日ホームページにアップしました。地図制作;田中茂雄