最新情報/館林城調査・研究・提案

2016年10月28日(金)、 栃木県那須烏山市の烏山城調査へ。
8日間で3つの山城を見学。 山城(やまじろ)三昧!

10月21日、佐野の唐沢山城見学。 27日は太田市にある金山城。
28日は烏山城 。8日間で3つの山城。疲れたけど、楽しい山城体験だった。

「館林城の再建をめざす会」は 那須烏山市から依頼を受けて、
町の活性化のために歴史遺産を活用するアイデアを紹介するセミナーの講師を勤めます。
そのための現地調査。

市職員の方と小雨降る烏山城へ登城しました。山道なので体力必要です。
※2年前の足利市での講演。今年6月の前橋市での講演。
館林城をテーマに町を活性化する取り組みが徐々に評価されてきた。
「館林城の再建をめざす会」をスタートさせて5年。まだ二合目あたり・・・。

【烏山城】

烏山城の解説はウィキでどうぞ。「ウィキペディア/烏山城」
烏山城の標高は206m。市街地との比高は約100m。
※信長の安土城の標高199m、麓からの比高は100m。
  天下の名城とまったく同じ高さだ。これは使える数字だ。
(例)彦根城の標高は136m麓から46m。 佐野市の唐沢山城は標高249m麓から180メートルなので烏山城より二回り高い。
 太田市の金山城は標高235mで唐沢山城とほぼ同じ。
※烏山城はぎりぎり徒歩で登れる高さだ。金山城も唐沢山城も自動車道が整備されている。
 安土城に登ったことがあるが、夏だったのでかなり汗をかいた。二度目は登りたくない。
安土城写真
※安土城の隣、近江八幡城(豊臣秀吉/秀次築城)は標高284mで麓からの比高100m。ロープウェイで登る。歩くの無理だった。
       ●
築城の年代は諸説あり詳細は不明。
応永24年(1417年)那須氏一族の沢村五郎資重(那須資重すけしげ)によって築城。那須与一(源平時代。資隆)の子孫。
「ウィキペディア/那須資重」
烏山城は 那須氏の居城として代々整備された。
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天正15年(1490年)秀吉が小田原平定。那須氏失脚(小田原攻撃遅参、秀吉に叱られた?)。
織田信長の息子・信雄(のぶかつ)が秀吉に逆らい、左遷(というか流罪)されて烏山へ。わずか2ヶ月間。(ず〜っといたら面白かったのに)烏山→出羽国秋田→伊予国へ流される。
成田氏(三成の水攻めで有名な忍城の城主だった。氏長・うじながは「のぼうの城」で有名になった甲斐姫(秀吉の側室になった)のお父さん。奥さんは太田金山城主の由良成繁の娘。これは山城繋がりだね。)が城主に。
次に松下氏。(秀吉の配下の武将で秀次に属した。ということは、私のご先祖さまの同僚だ。烏山城の次に福島の二本松城へ移る。
豊臣恩顧の大名は中央から遠くへ飛ばされる。断絶されないだけましか。 )
堀氏(正保絵図面を提出した。戦国武将・堀秀政が有名。秀政の子が烏山藩主・堀親良・ちかよし。豊臣系の大名なので外様だ。)
堀親良が城を改修する。(ということは中央の進んだ築城技術で改修されたということだ。)
板倉氏。(島原の乱で失態した板倉重昌の子で京都所司代の重矩が寛文12年1672年烏山城主となる。
譜代大名。名奉行・板倉勝重の子孫)
再び那須氏。(お家騒動で改易された。困ったことだ。)
[スピンオフコラム] 那須氏直系の子孫が昭和になってえん罪事件に巻き込まれた。
弘前大学教授夫人事件だ。真犯人が出てきてえん罪と認められた。不孝にもえん罪に巻き込まれた人物が那須氏直系の子孫と知って衝撃を受けた。DNA鑑定などない時代、裁判費用を捻出するため那須家は先祖伝来の遺品や田畑を手放したという。国は損失補填をしなかったのだ、歴史好きだったのでよく覚えている。 那須与一、諸行無常だね。 )
永井氏、稲垣氏と替わる。
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ようやく大久保氏(彦左衛門で有名な一族だ。小田原城主も同じ一族。譜代大名家、名門だ。)
大久保常春が亨保10年(1725年)烏山に移邦される、以後140年にわたり城主を務める。

※幕末に、小田原藩主・大久保家つながりでかの有名な二宮尊徳(小田原生まれ)の報恩思想による
烏山藩の藩政改革(菅谷八郎右衛門がリーダー)が始まる。反対派が多く挫折。しかも二度も・・・。
これも活用できる歴史遺産かも?。

※天保4年1833年二宮尊徳は天保の飢饉で困窮している烏山藩(大久保家)を救済。

烏山城 パンフより
▲パンレットを再構成した。

烏山城絵図
▲日本古城絵図 「野州烏山城」(国立国会図書館蔵 デジタルライブラリーより。
 三の丸が築かれた1659年以降の城絵図。お城中心の絵図。
烏山城 本丸図 ▲烏山城 本丸部分拡大
烏山城 常磐門
▲烏山城 常磐門拡大
烏山城 三の丸
▲烏山城 三の丸 部分拡大図 (図を見やすくするために、方角:上が西)

【烏山城絵図】

烏山城の古絵図で代表的なものは二つ。
1)幕府が正保元年1644年、諸藩に命令して収集した軍事機密の城絵図で「正保城絵図」と呼ばれる重要文化財。
  国立公文書館に保存されてる「下野国烏山城絵図」。
  (デジタルアーカイブで誰でも閲覧可能)サイズは東西2190ミリ、南北2440ミリ。
正保絵図 烏山城
▲堀親昌の時代、万治2年、1659年)に麓に三の丸(藩主の居館及び執務室)が築かれる以前の絵図。1644年〜45年頃の烏山城。
 山城だけでなく、城下町全体も描かれている。城を攻略するさいの一級資料だ。
 現在の烏山町の骨格は当時と同じだ。


2)国立国会図書館蔵の「日本古城図絵。野州烏山城」上に掲載してある。
 年代が新しい。三の丸の整備でわかる。幕末までほぼこの絵図どおりの城だったのだろう。


【烏山城跡 現状】

烏山城は手つかずの山城である。明治になり廃城となってから、そのままである。
観光地化もされず、本丸に神社も建てられず、山は植林されて杉の木だらけ。杉は育ち過ぎて山は暗い。
杉林の下地は植栽が貧困だ。広葉樹がほとんどない。
烏山城 七曲り行程
▲お天気悪し。那須烏山市職員とのぼりました。空手で鍛えているので、七曲り登城では息が上がらない。余裕。
烏山城 石垣
▲石の大きさも立派。この石垣を見るだけでも山城にのぼる価値がある。
(女性は市の職員。石垣の大きさを伝えるために写っていただいた。烏山の職員だが烏山城跡に登ったのは今回初とのこと。
地元の方々にも存在が薄い。 )

烏山城 正門枡形跡
ゴール。本丸跡。天下の名城安土城天守跡より数倍広い。
烏山城本丸跡




【烏山城を歴史遺産として活用するには】

掲載した写真はほんの数点。麓の三の丸は撮影してない。三の丸周囲にも石垣が残る。
歴史遺産として価値は高いし保存状態も良好だ。
本格的な発掘調査を行い、太田金山城跡と同規模の開発を行えば栃木県有数の山城として再建できる。
立派な歴史観光資源となる。

まずは麓の三の丸の整備から着手して、七曲りの整備と常磐曲輪の石垣整備、正門、枡形、本丸と古本丸の石垣整備。
建築物の復元は常磐門と橋を復元できれば、メインの施設となる。

天守は見晴台を用意して眺望を堪能できるようにすれば、山登りの(登城)のご褒美となる。


(2016年11月7日アップ)




【セミナーの成果! 那須烏山市が杉の木伐採を決意。】
行政の迅速な対処に感激。素晴らしいぞ那須烏山市!

2016年12月那須烏山市から地域の雇用を促進するまちおこしのセミナー講師を依頼された。
5年間続けてきた「館林城の再建をめざす会」の活動が評価されたのです。
町の活性化に歴史文化遺産を活用するという考え方が受け入れられた。
(デイビット・アトキンソン氏も提言している)

城好きの私としてはセミナー前に「烏山城」の調査をしなくてはいけない。(烏山城を見るまたとないチャンス)
--------------上記にアップしたページがその報告レポート。

烏山城は山城。手つかずの良さがあるが、訪れる人も少なく、
植物による城郭破壊が進んでおり早急に対処すべき状況だった。

セミナー当日、那須烏山市副市長も聴きに来てくれた。烏山城の歴史的価値。そして現状をプロジェクターで紹介。
石垣の崩落を阻止するため杉の木の伐採を強く訴えた。
反応は上々だった。

烏山城のある山は個人の地主三名が所有している。
植林された杉の木も個人の私有財産である。個人が保有していたおかげで手つかずのまま残された。
産業としての林業が崩壊しつつある那須烏山では、城郭を破壊させる杉の木を伐採する余裕がない。
行政が動くべきと提言した。
         ●
半年後、2017年6月19日(月)、那須烏山市地域雇用創造協議会からセミナー講師を再度依頼され講演に訪れた。
そこで、嬉しい知らせが・・・
「烏山城の石垣を崩落させるおそれのある杉の木100本を伐採する」
当日参加された市議の方とセミナーの主催者からの報告だった。
なんと素速い反応だ。館林市役所の職員に報告したい。

実に嬉しい。
単なる城好きな私であるが、今までの活動が現実の城の保存に貢献するとは・・・・ありがたい。
やはり現場に足を運び、そこで気づいたことを提案する。
まさにデザインワークと同じである。
現場で考えること」私の師であるグラフィックデザイナー石岡瑛子先生から教えていただい法則。なにごとにも通じる!

現場で撮影した写真と絵図面(正保城絵図)との比較が那須烏山市を動かしたのだ。

註)100本の杉処理方法は、伐採後その場でチップに粉砕し処分。木材としての商品価値は無いとのことだ。山が荒れるわけだ。
1本1万円の処理費用と伺った。

烏山城の杉の木

杉の木 100本処分すれば、石垣の破壊進行を止められる。
伐採と同時に下草の処理と石垣の調査と最低限の補修を行ってほしい。
石垣の下草伐採はボランティアを組織して行えばよい。現地を見てもらえるし。全国の山城ファンに呼びかけてみては。
良い反応を得られるはず。イベント化すべし。
(企画書を提案してみよう)

おりしも今年11月に栃木県佐野市で「全国山城サミット」が開催される。那須烏山市は城の保全活動をアピールすればよい。
デザイナーとして分かりやすいレポート作りに協力します。
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それにしても、館林市行政を動かすには何が足りないのだろうか?(5年間活動してお城再建の反応がない)

(2017年7月2日アップ)