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- 館林城調査
榊原康政リポート
【康政が館林で行ったこと】
天正18年8月(1590年)家康の命令で、康政は館林10万石の藩主となり館林に入城。まず、領内の総検地を実施。
館林領内における主な事跡は以下の3つ。
●館林城の拡張
城北外加法師辺り(天文年間に赤井照光が館林城を築城した頃、城下町は今の当郷・善長寺周辺)にあった城下町を片町以西に移し、その付近にあった善導寺、圓教寺、大手付近にあった青梅天神などを移動した。
その跡地は侍屋敷に充て、赤井氏が築城した城を大幅に拡張。周囲を堀と土塁で囲み防御を厳しくした。
●城下町の移転整備(現在の館林が形作られた)
城下町を片町以西の今の市街地に移した。しかも付近五カ村の農民を町民とした。文禄2年から4年にかけて、町の周囲を土塁と堀によって囲い、五つの門(江戸口門、佐野口門、小泉口門、太田口門、加法師門)を設けた。門の周囲は石垣で囲い堅固な門を建て、門番の居住する棟割長屋と見張りための番所を置いた。門番は木戸守ともいい、各門5人と定め、夜間のみ交互に番所に詰めて警備した。
また、従来の(目車町から第一中学そばの長良公園経由足次に向かう道路)メインストリートを現在の谷越から足利町への大通りへと変更した。(慶長二年・1597年完成) 出典:「館林記」
康政がめざしたものは、防衛上強固な
総構えという城郭都市であった。とにかく江戸を守る防衛城郭都市を造りたかった。(仮想敵国・東北の伊達氏)
●治水事業
文禄4年(1595年、京都では豊臣晩年の愚行・秀次事件の年)利根川、渡良瀬川の堤防を荒瀬彦兵衛、石川佐次衛門を奉行として築造。水害の多い館林の治水に貢献。利根川の堤防は1万8千320間の長さ。渡良瀬川は1万2千93間もの長さ。降雨時に氾濫していた河川も収まり、館林に多大な貢献をしている。堤防工事の結果、ひと雨ごとに四方に氾濫する所もなくなり、現在の鶴生田川周辺の低湿地と台宿(現朝日町の北側の低湿地(沼田)の水が引きはじめ、所々、地肌が現れた。(現在の下町辺りの水が引いてきたので、日光脇往還を開通させることができた。)
江戸の防衛基地としての機能を高めるため、城を拡張・堅固にし、町の規模を拡大させ、治水を施し、領民の安心と生産性をあげる。
康政のわかりやすい、しかもダイナミックな行政力に拍手。上記の大事業をほんの数年(2〜3年)で行う戦国時代のバイタリティに驚愕(現在なら100年あっても無理)。戦国時代の人は合理的で行動力がある。今の閉塞感はなんだ!とはいえ、平和の代償としての閉塞感のほうがましなのだろう。(平均寿命も長いし・・・)
2012年8月5日加筆
榊原康政については、まだまだ文献を調査中なので、
アートとしての康政像と具足・指物をご覧下さい。
▲2017年1月15日撮影。東京国立博物館で特別展示されていた。しかも撮影OK。具足の背面もわかる。貴重な写真。
(2017年1月15日アップ)