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- 上毛新聞掲載2013年5月2日
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- 館林城調査
館林城絵馬(明治6年9月奉納、尾曳稲荷神社所蔵、館林市指定重要文化財)
江戸時代後期の城の姿を伝える唯一の絵画
【絵馬の題は、「尾引城之図」と書いてある、通称館林城絵馬】
明治6年に館林在住の浮世絵師・北尾重光が、連雀町末広屋佐平他数名の依頼で描き尾曳稲荷神社に奉納したもの。松平清武により再築された、近世後期の館林城。この絵馬が奉納された翌年の明治7年3月6日、大名小路から出火した大火により城の大半が焼失。
画像;「館林市史・特別編第4巻」より
昭和50年ころのモノクロ写真。建物名の名札がはっきりしている。上の画像より劣化が進んでない。
画像;「写真集・館林」川島維知著 国書刊行会発行より
劣化が進む館林城絵馬をデジタル修復してみました。
絵馬は尾曳稲荷に奉納されたものなので屋外に飾られていた。明治6年(1873年)制作されたので、140年ほど経過している。絵の具のはく離、しみ、汚れ、きずなど劣化が進んでいる。修復をしたほうが良いのはあきらかだ。イタリアのボランティア主婦の修復騒動もあったが、現物を修復するのは専門家でなくてはいけない。しかし、デジタル修復なら本物を傷めることなくデータだけの修復なのでリスクのない修復といえる。デジタル修復といえども、パソコンが勝手の補正してくれる訳ではない。丁寧な手作業が必要なので、根気と集中力、そして時間がかかる。【デジタル修復の方法を以下の画像で説明】デジタル修復:田中茂雄
デジタル修復の例をみると一目瞭然。絵馬がクリアになっている。とくに大手門の白壁のしみがきれいになり、土塀の漆喰の白も汚れを落とし鮮やかになり大手門の構造が鮮明になった。
作業の説明は専門的になるが、フォトショップという画像ソフトを使い、汚れた白壁をパスで領域を選択し、テクスチャを損なうことなく明度を(明るさを調節)上げる。傷や汚れの箇所はきれいな部分を選択肢汚れの上にペーストする。そうした地道な作業を繰り返して修復しています。石垣の部分は描いた石垣の線のコントラストつけ、欠けた部分は描いています。
上記の例でデジタル修復に約2時間かかってます。
以下の2点の画像はデジタル修復した絵馬。建物や地名の名称を加えたのでさらにわかりやすくなっている。(2点の修復で丸3日かかりました。)
【デジタル修復画像の原本は館林市史の表紙カバーをスキャン】
絵馬を撮影した実画像が入手できれば、それをもとにデジタル補修をしてみたい。
絵馬が鮮やかによみがえるはず、しかもデジタルなので劣化がない。デジタル補修は「館林城の再建をめざす会」プロジェクトのひとつになりますね。(2012/10/05)
絵馬の作者、北尾重光について
【絵師:北尾重光(きたお しげみつ) 文化11年(1814年)〜明治16年(1883年)】
絵師・北尾重光は文化11年、江戸に生まれる。北尾派の門人となり浮世絵を学び、法橋(ほうきょう)という位を授けられた。号は渓斎。25歳頃から館林城下の田町(たまち)(下町)に住み、店を構えて各種の幟(のぼり)や絵馬を描くことを生業とした。
※田町とは、検断職(青山家と小寺家)の給田地で下町にあり、鶴生田川より北を田町と呼んだ。現在の本町三丁目。
重光の絵馬は館林市近郊の多くの社寺に奉納されていて。その数は300枚以上といわれている。北尾重光は明治16年11月16日、71歳で死去。館林市内の覚応寺にお墓があります。
※北尾派とは、江戸時代中期の浮世絵師・北尾重政(1739〜1820年)を祖とする浮世絵の流派。山東京伝(有名人)、鍬形斎(北尾政美)などが門人として知られている。美人画、風景画に優れ、山東京伝・曲亭馬琴らの戯作の挿絵が多い。本好きの浮世絵師として知られ、手懸けた絵本は60点を超えるといわれる。(詳しくはwikipedia-北尾重政を参照)
参考資料;「館林市立資料館特別展、北尾重光の絵馬」より(2013年2月10日追記)
「明治戊辰戦争凱旋絵馬」北尾重光 尾曳稲荷神社(館林重要文化財)
奉納絵馬なので、展示環境が美術館と違い悪い。退色、絵の具のはく離、破損などが進行しやすい。早めの保存対策がのぞまれる。(というか、すでにしているはず。)
この絵馬の背景に注目。左は尾曳稲荷の本殿が描かれている。色も鮮やかで美しい。そして右は二の丸にあった御殿。絵師・北尾重光は館林に在住していたので、実物をスケッチして描いたはず。ただし中に入って写生はできなかったから、外観、特に屋根の形が詳しく描かれているのだろう。しかし、日本画は雲で省略してしまうので、建物の全体を知りたいときは困るなあ。
それでも、
城内の屋敷の形態を知る貴重な手がかりだ。
戊辰戦争の戦勝を感謝して尾曳稲荷に奉納した。隊員は22名、それと隊長と小太鼓を待つ楽士隊員がひとり。隊士の服装は洋装となっていて時代を感じる、しかも武器のメインは刀や槍でなくて小銃だ。楽士は小太鼓を持っている。すでにこのとき館林藩では洋式の訓練が為されていたのだ。映画「ラストサムライ」の新政府軍の軍装である。
総勢24名。この人数に意味があるのかわからない。絵馬制作の費用を分担した人が24人だったのか?
戊辰戦争は館林藩にとっては、大事件。戊辰とは明治元年(戊辰の年)に戦われた幕末の最後の本格的内戦。新政府軍と旧幕府軍との戦い。奥羽列藩同盟と親政府軍との戦いのため、舞台は東北。主戦場は会津。「八重の桜」の舞台だ。館林は八重の桜を攻める側になっている。館林藩が新政府の命令により参戦した戦いは、1)総野の戦、2)本宮の戦、3)白河の戦、4)会津の戦、5)仙台口への出兵(激戦地・旗巻峠)。
1)総野の戦では館林藩兵54名出兵。敵の大島圭介(有名人)率いる旧幕府軍に敗北。戦死者を出す。
2)本宮の戦いでは、福島県二本松の手前にある本宮で市街戦となる。本宮を占拠。藩士5名死亡。
3)白河の戦いでは白河城を攻略しようとする会津藩と戦う。10名以上戦死。
4)会津の戦いでは、会津若松での戦いに向かうための途中(三斗小屋、中峠、関山)に幾たびかの戦闘があった。9月5日若松へ到着。若松城攻撃に参加。(川原口で戦闘)。八重の桜への攻撃だ。合掌。(会津の戦いでは385名出兵)
5)仙台口への出兵。いわき市から相馬市へ(福島の原発周辺を通り抜け)仙台をめざす。相馬の先、駒ヶ嶺に陣をはる。幕府軍が接近。5日間の戦闘になり、旗巻峠での激戦で館林藩にとって最大の犠牲者を出した。(仙台口の戦いでは344名出兵。出典;「故秋元礼朝事跡」)
館林藩が加わった戊辰戦争については、新たにサイトを設ける予定です。
参考資料「館林双書第27巻・旧館林藩士戦争履歴」より (2013/02/10追記)